ギャルリももぐさ/百草
作品/百草
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暮らしの造形展 Y

徳田吉美 大村 剛 吉田次朗

2016.7.9 (土) - 24 (日)
11:00 - 18:00
会期中無休

作家在廊日|徳田吉美   7.9(土) 10(日) 24(日)
      大村 剛   
7.9(土) 10(日) 
      吉田次朗   7.9(土) 10(日) 

 

 

 

暮らしの造形展も第一回目から6年が過ぎ、今の美術工芸界を見ると、予想していたより時代は早く変わりつつあることを実感している。当初の目的であった「美術と工芸の壁をなくす」「技術や伝統を深めるより、時代の気持ちをすくい取り、幅広く展開する」ことは、珍しくなくなってきた。美術と工芸という存在や、その間の壁はそれなりに残っていくものの徐々に縮小し、壁の外に21世紀の新しい価値観が育ちつつあるような気がする。それはカテゴリーも上下もない世界で、まだまだ小数ではあるが確実に世界で自然と育ってきている。羨ましく思う半面、まだまだ壁の中でもがき、外の世界に引き継ぎたいと思う。
 百草が開廊した直後の20世紀末に、多治見工業高校陶磁専攻科で学び始め、作家としての地固めをしてきたのが、今展選んだ3人である。彼らは上記の世界の申し子のような存在であり、陶芸らしくもなく美術らしくもない、各人の人間味が存分に発揮された作品制作をしている。
 明治以降、工業化を積極的に取り入れた美濃焼は、上絵付だけ手仕事の伝承を残してきたが、職人さんも高齢化し危うくなってきた。徳田吉美さんは、美大で油絵を学び、デザイン業界にもいたことから、多治見で作家活動を始め、自然と上絵の世界に惹かれていった。そして出会ったのは、美濃では絶滅しそうな上絵技法である漆蒔。自分で制作した白釉の食器に漆で絵を描き、半乾きの上に上絵の具の粉末をまぶすので、色の発色が柔らかく、輪郭線も自然である。その仕事で美濃陶芸作品永年保存事業を受賞した。鑑賞工芸を目指す作家が多い美濃で、日常食器の個人作家に産地の技術が引き継がれていくのは、希望の光だと思う。普段使うのが愉しくなるポップな色絵の白い器は、戦後美濃でデザイン指導された日根野作三氏の精神を観るかのようだ。
 大村君は百草で開かれる展覧会に熱心に足を運び、一つ一つ丁寧に手に取って見ている姿が印象に残っている。その学習が見事に咀嚼された彼の処女作を鮮明に覚えている。まるでペンキの剥げ掛かったブリキ缶のようで、薄い素地に錆釉を掛け、カラフルな上絵をべた塗りした皿で、絵などの紋様を描く上絵具の新しい使い方が新鮮であった。形も20世紀前半のプロダクトデザインの影響を受けているからか、工業製品的な形をロクロでひいて、パーツを組み合わせるなど、日本の陶芸の文脈を逸脱して面白い。陶芸から陶芸を作らない、つまり、陶芸の価値観などに目もくれない活動と未来陶芸を、今後も注視していきたい。
 専攻科で3人は同期。最年少の次朗君は、当初から土慣れしていたかのように器用であった。在学中に節句にちなんだ鬼の蓋置を発注したこともある。器用さが徒となることは多いが、彼は早くに自分の世界観を掴み、着実に世界観を広げてきた。この世代に共通した方向性ではあるが、特に次朗君は売れることをあまり意識していないかのように、自分の好きな路線を貫いていて気持ちよい。かといって尖っているわけでもない。そっとそこに佇むように置いてある作品に、気付く人だけが手に取り使いこなす。彫刻と器の間に最も壁のない作家である。その自由さがとても羨ましい。
 様々な面で発展してきた20世紀のツケが回ってきた21世紀のこれからを見通す力は僕にはないが、この3人の仕事を観ていると、なんか希望が湧いてくる。外の世界にあなたも足を踏み入れてみませんか?

 

 

百草 安藤雅信

 

 

 



 


 

 

 

徳田吉美

 

名古屋に生まれる。
小学校低学年から中学卒業まで、毎週土曜、近所のお絵描き教室に通い詰める。
ひたすら楽しくほとんど休まず通う。遠近法などは無視。先生が素晴らしかった。

中学卒業間近、高校に美術科があることを知り、デッサンの存在も初めて知る。
4B鉛筆三本を握りしめ受験、他の受験生が持つ鉛筆の多さに驚愕する。

無事旭丘高校美術科に入学する。油絵に初めて出会う。
美術の基礎を三年間同じ仲間と共に学ぶ。濃い三年間でした。
デッサンと油絵にはなじめず手こずる。

専攻を絞りきれず、なんとなく油絵を選ぶ。
三浪してムサ美短大油絵にすべりこむ。
アトリエ横に小さな薪窯とガス窯があり、やきものに興味を持つ。

卒業後、デザイン事務所、画廊勤務などを経て、
フリーランスでTV、雑誌、広告美術の仕事をしつつ、絵画やオブジェなどを個展で発表。
30歳頃、たまたま住んだアパートが児嶋善三郎邸敷地内にあり(東京国分寺)
同じ敷地にガス窯(松籟窯)もあり、自分の食器を作り始める。

30代後半、人生の転機に遭遇し悩むが、何故かやきものをやろうと思う。
浪人仲間であった百草店主安藤君に、多治見工業高校専攻科を教えてもらい入学。
窯や釉薬、ロクロなどを初めて学ぶ。
在学中に安藤君が作ったMAVOに誘われ入居。
卒業後窯を購入、20年遅れの新人として制作を開始する。

解らないので続けていた漆蒔に、少しづつみなさんが興味を持ってくださる。
『陶芸』という言葉と同様、自分の立ち位置が定まらぬ自覚をだんだんと感じ始める。
2016年1月名古屋市美術館 [ポジション2016 アートとクラフトの蜜月]展に参加。
自分なりの表現の場をいただけたことは、素直に嬉しかった。
同じく3月、美濃陶芸永年保存作品に選定していだだく。
初めて普段使いの器に光をあてていただけたことに感謝。

海近職住合体を夢みつつ、盆地で制作の日々。

 


 

 

 

 

 

大村剛

 

1977福岡県に生まれる 自然に囲まれた環境で育つ

少年期 なぜか将来画家になろうと決める。
でもなぜか絵を描くのがすごくきらいだったのを覚えています。 高校時代、美大を受けたいと教師に相談するが「無理」といわれる。

1998
実家の居酒屋で岩田圭介さんの器を使っていて、それを見て強く惹かれる。その後1年間岩田さんの仕事を手伝わせてもらう。それまでまともに絵画を見たことがなかったので岩田さんがフランスに行くときについて行って古いものから順に2週間くらいかけて観ていき、とても影響を受ける。

1999 岐阜県立多治見工業高校陶磁科学芸術科入学
吉田次朗くん、徳田吉美さんに出会う。このころ「百草」がオープンし徳田さんに誘われて展示会の手伝いなどさせていただく。その時見た伊藤慶二さんの「面」という作品が今でも忘れられない。安藤さんにはお茶を教えてもらったり面白いものをいろいろ見せていただいてとても影響を受ける。

2001 MAVOに入り制作開始。
吉田次朗くんとはいろいろ展示会など見て回る。

2003 「工房からの風」出品。

2004 ギャラリーcomoにて初個展。

2007 福岡県に開窯。

2009
中国茶の師範、李さんに出会い中国茶の道具を作り始める。台北市の茶家十職で2人展。以後1.2年おきに展示会をする。

2014
メゾン・ド・タカ(芦屋)の高山英紀シェフと出会いレストラン用のお皿を作り始める。

2015
デンマークのレストランnomaが東京でnoma tokyoを開催するときのお皿を一部出品する。これらのシェフとのやり取りで器の印象が変わってきました。


 

 

 

 

吉田次朗

 

1979 東京下町
人類みな兄弟と言っていた父と、唄があれば何もいらないのではないかと思わせる母から
(兄)姉姉兄妹弟妹(弟)の真ん中に生まれる
母によればあなたを産んだ時はまったく痛みはなく気持ちよかったわよと

北九州の祖父助次は大工で、その家には木でつくられた面がたくさんかけられていた
名前の一文字をもらい次朗となる

漠然と何かをつくるようなことをして生きていくのだと感じていた

身体を動かすこと、手を動かすこと、呼吸に意識をおくこと、
ボロボロの自転車をこいで荒川の土手に行ったり、目を瞑り瞼の裏の景色や薄く開けて漂うものを眺めたりすることが好きでした。

高校一年の夏に父が他界 (弟)の誕生

高校二年、土に触れる楽しさを知る
陶芸部に入り、早朝から部にこもり私物化

高校卒業後お金を貯めて、鈍行列車で国内の古陶の地を巡り
土器や須恵器、また飾りのない雑器などに魅せられる

1999 多治見
多工高専攻科に入学。
焼肉屋で大村くん、天さんとバイト

2001 
MAVOを借りて制作を始める。当初とっくん(注:徳田吉美さん)と同室

2006山口県大津島、宇部と移り住み2013岐阜県揖斐郡に居を移す

 

 




 
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