ギャルリももぐさ/百草
作品/百草
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   日本 羽根(昭和)  
   
 

古道具 坂田展

2016.10.22(土) - 11.6(日)
11:00 - 18:00 

会期中無休

 
   
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素と拙

 

海がフィルターとなり、日本に伝わってくるのはいつも一部。輸入されても日本好みにアレンジし、独自に発展させる。中国で発明された漢字がすべて日本に入ってきているわけではないのに、日本語は平仮名や片仮名も発展し表現は豊穣と言われている。しかし、中国語の漢字にはそのような枝葉がない分、漢字一語に掘り下げられた意味が横たわっているのではないか。今年蘇州を旅行した際、ある女性から「拙を意識して制作していますか」と問われ、そう考えるようになった。
 「拙は日本では余り良い意味に使いませんが」と答えたところ、通訳者から「たぶん老子の大巧若拙にもある意味で使われていると思います」と説明を受け、その場でインターネット検索、拙の一文字で20年間の霞掛かった状態が一挙に晴れた。その時、ふと坂田さんの顔が思い浮かび、これこそ坂田さんの本質を言い当てた言葉だと思った。
 中国の古典「菜根譚」では拙を「過剰な装飾や技巧を排したもの、純朴素朴なものに力があること」と説明されている。老子は45章で「大きく完成したものは未完成のように見えて、その働きは衰える事が無い。本当に満ちているものは空っぽであるかのように見えて、その働きは枯れる事が無い。真っ直ぐな物は曲がっているように見え、大いなる技は拙く見え、本当の言葉は何も語っていないかのようである・・」と、真の豊かさとは何かを問うているように感じた。柳宗悦も「・・茶人達はとりわけ高台の美を味ふ。そこは荒々しく、多くは釉がけが施されておらぬ。そこに「麁相の美」を見るのである。西洋にはこんな鑑賞はない。かかる「麁」は、宗教的理念である「貧」に通じるものであって、「麁相なるもの」を「貧しさの美」と呼んでよい。もとよりここで「貧」といふのは、富への反律としての貧ではなく、寧ろ真の富をつつむ貧で、長らく東洋の哲理が説いた「無」の境地である。有無に滞らぬその無である。それが形をとる時、「渋さ」とも「わび」とも「さび」とも呼ばれ、凡ての美の目途となった。」(奇数の美)と似たようなことを論じている。しかし、茶道・華道のように民藝道にもなりそうな高尚かつ求道的な説明になっており、それぞれに良さはあるが、ここに中国と日本の違いを見た。
 ベビーブーマー世代の坂田さんが、古道具屋を始められた経緯とその後の活動、そして世代的なことを踏まえると、過去の価値観に寄りかからないどころか価値観の固定化そのものを好まず、時代の変化と共に美意識を沿わせる同時代性を大事にされてきたと思う。かといって坂田さんが選ばれた古道具は消費され古くなっていくのではなく、齢を重ねた人生のつぶやきのような老子の思想と同じく、無駄のない素であり拙であるが故、対応力と応用力があり、いつ見ても新鮮な力を宿している。似たような古道具を扱う店は増えたが、坂田に並んでいるモノはどこか違うとよく言われる。シンプルで誤魔化しの効かない拙なるものの美しさは、常に自己を磨いていないと見えてこないものである。
 西洋・アフリカ物に加え、今展では日本のものを中心に据え構成されている。普段見慣れているような気がする日本物の、坂田さんが選ばれた、見えそうで見えない素と拙を感じて貰いたい。

 
  百草 安藤雅信  

 

アフリカ マリ共和国 土偶(12〜16C) 日本 小机(明治)

日本 革袋(明治) 日本 刺子手袋(昭和)
昭和ウクライナ パン発酵用容器(20C) 日本 厨子(明治)
イギリス ホーロー菓子型(20C) ドイツ ミルクガラス エナメル絵付瓶(18C)
日本 アルミ手袋型(昭和) オランダ デルフト白釉皿(17C中期)
 


   
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坂田さんの眼と言葉    菅野康晴/『工芸青花』編集長

 

 坂田和實さん(1945年生れ)の唯一の単著である『ひとりよがりのものさし』は2003年刊、『芸術新潮』で1999年から2003年までつづいた連載をまとめたものです。全50回で、毎回、坂田さんがえらんだ1、2点の品物と、1000字ほどの文章を掲載しました。 
 以下は『ひとりよがりのものさし』から抜書きした文です(数字は章数)。本の文章は坂田さんの日常や回想などが気負いなくつづられたたのしい読物ですが、ところどころに、以下のような「みる人」としての信条が記されています。同様のことは、このあとの文章や談話でもくりかえし語られており、いわば坂田さんの信念のようなものです。
 
5|その国の文化の深さは、巨大な音楽堂や立派な美術館をいくつも持つことではなく、街を走るスポーツカーの台数なんかにポロリとあらわれてしまうものかも知れない。
7|小谷さんは、骨董や道具の美しさは、遊び心を持っていないと感じることが難しく、一旦、その美しい線を自分のものとして会得してしまうと、あとは、たとえ西洋の物であろうと東洋の物であろうと、古代の物でも現代の物でも、又、高価なものでも道端に落ちているものでも、その選択は単に応用問題にすぎないということを、僕達、若い仲間に教えてくれた人。
18|ふたつの土器は国も時代も異なるけれど、物は形と素材感だけを頼りに選んで良いのだ、いや選ぶべきなのだという単純で大切なことを僕に教えてくれる。
24|人の選択がバラバラであるという多様性こそが、その社会の成熟度の高さや健全性を示していると、つい僕などは思ってしまう。
36|製作技術の向上は、不思議なことに作品の真価とは連動しないものらしい。
47|稀少性や時代の新旧、作家の名前など、そんな「肩書」ばかりによりかかった安易な評価はもうサヨウナラ。
49|僕にとって美しさを見極めるということは、他人の価値観に頼らず、自分自身を確立して行くこと。

 古道具坂田の定番商品のひとつに銀のスプーンがあります。以前、甍堂の青井義夫さん(古美術商)がこう語ったことがあります。〈銀の古いスプーンはずっと欲しかったのですが、どの店で見ても何となく硬い感じで、使いたいと思えなかった。坂田さんのお店で初めて、柔らかい感じのものを手にすることができました〉(『工芸青花』3号)
 坂田さんがいちはやく評価し、眼利きの代表例のように語られるものに、白デルフトやドゴン族のはしご、コーヒーフィルターや雑巾などがあります。しかしそれらをジャンルとして語ってしまうと、「眼」の話にはなりません。むしろ坂田さんの個人主義的、反権威主義的な信念の結果のように思えてきます。
 ほんとうは、古道具坂田のスプーンとほかの店のスプーンの差、坂田さんがえらんだ雑巾とえらばなかった雑巾の差を語ることが、「眼」を語ることになるはずですが、その差は言葉では説明できないのかもしれません。坂田さんも語っていません。ただしみることはできます。
「眼」は個別的であり、「言葉」が一般的なものであるなら、『ひとりよがりのものさし』の刊行後、坂田さんが多くの人に支持されるようになったこともうなづけます。私も勇気づけられました。ふえたのは「言葉」の共感者だったのかもしれません。

17|まだあまり世間では評価されていないけれど、ちょっと見方や提示の仕方を変えてみると、なる程、案外オモシロイ、というような物を捜してくる訳で、そんな物が今ごろその辺りにころがっているはずがない。

 まだ評価されていないということは、まだ言葉で語られていないということです。坂田さんはいつもそうした物をさがしています。言葉は便利ですが、ときに窮屈なこともあります。『ひとりよがりのものさし』をわすれて、つまり坂田さんの言葉にもたよらずに、坂田さんがあらたにえらんだ物をみてみたい、と思っています。


 
     

 

   

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