日常を切り取る
先日NHKで昨年亡くなったピナ・バウシュの舞踊を観た。男と女のすれ違いを台詞は使わず、小道具と動作だけで見事に表現していた。世界標準の現代美術を感じた。個人の日常を切り取り、それを誇張したり引き算することで、これだけ普遍性が得られるのかと新鮮だった。
ボブ・ディランの音楽やコムデギャルソンの服にも、同じように日常の切り取り方の鋭さを感じる。素通りしてしまう日常に問題点を見出し、可視化するのが現代美術の役割だとすれば、辻さんがアメリカで目の当たりにした新しい技術・アイデア・素材で無理に工芸アートを制作することや、ただの格好良さ、また自己実現を表すだけのものは、日常との関わりが見えず、一時的な驚嘆にしかならないだろう。日常を鋭く切り取り抽象化できたものは、普遍性を持つのである。
誰しもが日常を有し、生活をしているわけだが、日常との関わりは自ずと表現に出るとは限らない。出るか出ないかは、辻さんが憧れの作家から感じた「人間の奥の方からにじみ出てくる必然」があるかないか、それが分水嶺となろう。必然に至る過程は、日常への多くの疑問符で成り立っている。
最初に送られてきた辻さんのA4二枚にびっしり書かれた年表や、三谷さんが「ほぼ日刊イトイ新聞」で公開されている対談とブログでも、作家に至るまでの迷走が綴られていてとても面白い。多くの疑問符が迷走を促し、原動力とエネルギーの持続力に繋がっている。彼らの迷走は現在進行形で、二人が推奨している「生活工芸」は辻さんプロデュースのもと、今秋、金沢21世紀美術館で催されるし、三谷さんも松本で工芸の五月という展覧会を継続されている。更に、辻さんが金沢でショップを開き、三谷さんも、来年松本で10cmというギャラリーを始められる。
文明と共に変化し続ける日常生活に合致することが、生活工芸には求め続けられるであろう。離れてみたり、中に入ってみたりして、常に日常に鋭く関心を向けていなければならない。現代美術と表裏一体である。暮らしの造形とは、作家が切り取った日常を、生活道具や彫刻、絵画に置き換える行為を言う。二人の活動や興味の幅の広さを知ると、、日常食器だけでなく、美術作品を制作することに必然を感じるし、それは自然な行為だと思えてくる。
百草 安藤雅信
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