今から10年前に長谷川一望齋に伝わる古い旅持茶箱を拝見したのが、「茶の箱」展のきっかけである。昔の職人仕事の看板や着物などの意匠と技術の融合にはハッとさせられることが多く、その旅持茶箱もお手本に相応しいものだった。戦国時代、江戸時代、現代と茶の湯の役割は時代と共に変化してきているが、旅持茶箱で気軽にお茶を楽しみたいという遊び心は、今も昔も変わらないようで、その時妙に嬉しくなったことを覚えている。
茶の湯に関心のある若い世代が最近増えてきたのは、21世紀に芽が吹き出したギャラリーや作家、また使い手たちの間で、新たな価値観の共有が始まったからであろう。茶の湯の入門として、点前の順序の約束がない旅持茶箱はうってつけである。また、茶の湯の楽しみの一つに、心を寄せる友を客とし、亭主の思いを分かち合うことがある。見立てと工夫、あるときは外連(けれん)味を盛り込み、自分らしく、そして友を意識しながら道具組みを考えるのは、亭主の喜びであり、お互いそれを分かり合えたときの一瞬は何物にも代え難い。しかし、道具だけで真の茶の湯とは呼ぶことが出来ない。茶道具は場によって活かされるからだ。美術館で見る茶碗に比べて、時間の流れの中で道具として使われ、茶席という場に置かれた茶碗とでは、同じ茶碗でも別物に見える。過去の名品を眺めることはとても好きだが、それが活かされる場は、やはり過去の茶席である。現代の場にはそこに相応しい道具が選ばれることだろう。お茶を飲むという日常的な行為を、非日常的な茶の湯という一つのスタイルとするには、アーティスティックな切り口を持って芸術的に洗練し、時と場と人をトータルに活かす行為が重要だと考えている。それは常に新しい趣向や道具が必要ということではなく、いつもと同じ場・道具であっても亭主の心構えとちょっとした工夫で、別の世界が開かれるという意味である。
今展は前回からメンバーを替え、新たに木工の佃君とガラス作家の辻さんに加わってもらった。本家本元の京都でパンク魂を持った佃君、生活道具と現代美術の間を行き来する辻さんが、広い意味での茶をどう展開してくれるか楽しみである。箱は使い手が時間を掛けて組んでいくものであるが、作り手の我々もパーツを作りながら自分だったらこう組みたいという茶箱に挑戦している。それぞれの好みや考え方の広がりが、継続していくことで新旧関係なく選んだ道具組みに表れて面白い。職人が減少しつつある昨今、作家が使い手の気持ちを考えながらプロデュースし、制作していくことは意義があると思う。
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