ここ2〜3年で10周年を迎えるギャラリーが多いという話を聞いた。そういう百草も今年で10年。’90年代の後半に始まった大きなうねりが益々強くなっているからであろうか、当初ほど向かい風を感じなくなった。一体何が大きく変わったのか。
封建社会から民主主義へ社会が変化し、経済発展と共に、人口も増え続けるという時代が長く続いてきたが、日本が初めて体験する人口減、環境問題などその陰りが見え始めたのが’90年代である。今活躍している作家たちは、潮が引いた後の砂浜の石のように、波に乗ることをせず前からそこに居たのだろう。砂浜に残っていたものは、百草開廊の動機ともなった日常であり生活というところから社会を見つめることであったと思う。一般的に百草は生活提案型ギャラリーと言われているらしいが、美術史家の土田真紀さんはここ10年ほどの変化をまとめて「キーワードは一言で言えばLIFEでしょうか。的確な日本語はないですけど。」とおっしゃった。
LIFEには生活という名詞的な意味と生命という動詞的な意味があると思うが、生活をモノで埋め尽くしてきた20世紀から、モノを作ったり使ったりして生活を楽しむという動詞的な要素を求める時代へシフトして来ているような気がする。それは一見すると近代以前の信仰と生活とモノが身近にあった時代を思わせるが、サブカルチャーの現代にカリスマ性はあっても信仰はそれ程身近にないので、擬似的なものではある。それでも人類史上特質的で物質的に発展し過ぎた20世紀が終焉することは喜ばしいことだし、方向性としては好ましいことである。
かつて漆に神秘性を感じ信仰の対象になった時代へ戻ることはもうないだろうが、今展で初めて紹介する新しい世代の鎌田君、新宮君の仕事に、LIFEを感じるのは何故だろう。蒔絵を中心とする高級食器へひたすら邁進してきた漆の世界から離れ、漆という樹液の生命を感じさせる仕事であるからであろうか。二人とも産地の分業制から少し離れ、素胎から自分で作り、自分には何が出来るか漆と真摯に向き合っている。
彫刻も勉強してきた新宮君は、刳りものを得意としているので木地から制作し、形の展開に男っぽい彼の個性を感じる。漆に接する態度は近代的で精製された綺麗な漆器制作とは全く異なり、粗製のままの漆と格闘しているかのようである。中世の一般家庭に置いてある使い込まれた木地のような風情の作品は、ハレの日ではなくいつもそばにおいておきたい道具である。
鎌田君は乾漆という技法で、木型などの上に布を張って漆で固めながら思い通りの形を作り上げていく。木地という堅いベースがないからか出来あがりは軽くて柔らかい印象を醸し出す。微妙なゆがみも味わいとして表現できる。今までは手間が掛かり日常食器には使われてこなかった技法であるので、形の自由度を活かし、木地の漆のものにはない展開が楽しみである。
赤木君が作家としてデビューした’90年代まで、漆や焼き物などの工芸界の作家たちは日常食器というものに関心があまり無く、作り手にも使い手にも日常食器は工業製品、ハレの日は作家ものという不文律のようなものがあった。赤木君のデビュー作和紙張の椀は、値段といいアイテムといい、普段に使いたいと思わせるもので、漆の世界である意味革命的だった。伝統的な仕事から他分野に超える仕事など、漆の潜在能力を探り、可能性を広げてきたことは誰もが認めることであろう。そして、漆器の近代的な発展に疑問符を最初に投げかけた角偉三郎と共に、与えた影響から芽が出始めている。赤木工房から巣立った二人がどのように投げ返すのか、今展はいろいろな意味でとても楽しみである。
百草 安藤雅信
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