深みのある赤い瑪瑙の小石、完璧な柄でかすかに透明なものが一つ、壁に取り付けた小さな棚に大切に置かれている。まるでアニムズムの神への供え物といったところ。そこはインドのキャンベイという町のビーズ職人の工房だ。私が、ナルマダ川の河口に近いラタンプールという小さな村を訪ねたのはこの石のためだった。
「ラタンプール」とは「貴重な石の村」という意味である。私はそこが数千年にわたって瑪瑙採掘の重要地点だと聞いていたので、着いてみてびっくりした。何しろ静まり返った小さな村で、ほんの数件の家々が広大な川床を見下ろしているだけだし、河原ではドライヴァーたちが自分のトラックをわずかな流れで洗っているのだ。流れの両側はどこまでも広がる砂色の砂利。私のドライヴァーが、橋のたもとでバスを待つ人たちに、果たしてここがラタンプールかどうかを訊きに行く。答えを待ちかねた私は川へ下りてみた。なんと、流れに洗われる砂利はどれもこれも滑らかに光る色とりどりの瑪瑙ではないか。
それからというもの、私は一年に二度か三度この村まで旅をして、その都度三日か四日滞在してきた。そして、一人の石の商人に出会った。彼は、小さな木造の小屋を持っていた。そこは村から北にほんの数キロメートルの最近新たにチークの木を植林された地域だった。その商人は、地元の十人あまりの人々が周囲の山々で見つけてきた石を買い、小屋に保管していた。山と積み上げられたり、幾つもの袋に入っていたりする石のなかからは、あいにく無傷の石は数えるほどしか見つからなかった。石の内部の色とか透明度をチェックするために、ほとんどが割られていたからだ。
そこで私は石集めの人々のあとについて、小屋の前の渓谷へ降りて行くことにした。渓谷の底は水の干上がった川床だった。私はそこで日がな一日瑪瑙をさがして過ごすようになった。 日の出ともなれば、ほとんど水平に射す陽の光が透明度の高い石を捉える。石は遠くからでも光って見える。だが、そのそばまで行く前に、もっと面白い色やかたちの石に気を取られる。やがて石集めという所期の目的は、思いがけないものやびっくりするようなものを目にする喜びに取って代わる……。
モンスーンの雨が小石をふるいにかけるように選り分けるのだが、その分け方には一種の秩序がある。ここは完璧だという一帯を見つければ、そのすぐそばには別の一帯がある。似たような条件の場所にはかたちや大きさの似た石が集まっているのだ。いちばん面白い石は、湾曲した川床に集まっているようだ。 私が夢中になって完璧な石を探していると、ときには音色も様々な鈴の音がして、羊とか山羊の群れが羊飼いに先立って湾曲した川沿いに姿を見せる。蛍光色のサリーを着て薪を拾いに来た数人の女性たちが「この外人、ここで何しているのかしら」といった面持ちでたたずんでいたりもする。しばらくすると彼女たちは、自分で拾った石を私に手渡し、去って行く。通りすがりの小学生たちが、立ち止まって私の石集めを手伝ってくれることもある。けれど、私がどんな石を好んで選ぶのか分からないらしく、すぐに付き合いきれなくなってぶらぶらと行ってしまう。ただし、シディ族のアビドという黒人の少年は別で、何年にもわたって私の手助けをしてくれた。だがそれにも終わりが来た。アビドは、彼の部族に対する政府の教育プログラムに則って都市の大学に進学したからだ。
時間はあっという間に過ぎ、日没間近になる。すると渓谷を見下ろす山上にあるババ・ゴールの墓所からアフリカのドラムの音が響いてくる。私は、はっと気づく。ホテルに戻って食事をしなくては。
渓谷からの帰り道で、彩りも鮮やかな巡礼の一団に出会うこともある。山上のババ・ゴールの墓に詣でる人々だ。ババ・ゴールとは、父祖の地を離れた地元の黒人イスラム教徒の聖人である。彼らの祖先は十四世紀にナイジェリアのカノからここへ移住してきたのだ。その伝説によれば、ババ・ゴールは最初に瑪瑙を見つけて売買を始め、それ以来ラタンプール周辺で採れる瑪瑙はババグーリと呼ばれるようになったという。
しかし、瑪瑙はいつでもそこにあって集めることができたのだから、取引は十四世紀よりずっと前に始まっていたはずだ。すでにローマ帝国時代にラタンプールはこの半透明な石とビーズ工芸で有名だったのだ。(その後の旅で私はカノを訪れ、市場で二本の古いネックレスを見かけたが、一連の大きな美しい石は明らかにラタンプールから出たものだった。)
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三日か四日たつと、私の体はかがみ込むのもご免だと悲鳴をあげだす。そこで私は近隣の村のひとつに脚をのばす。その村の農夫たちは、私が半年ごとに石を集めにやってくることを知っており、いくつもの袋に石を貯めておいて私が選び出して買うのを待っている。その中の一人が見せてくれる石が楽しみでたまらない。彼の美に対する感覚が私のそれととてもよく似ているからだ。まるで共犯者のようにニヤッと笑いながら、掘り出し物を一つ一つ取り出して、「これはどう?じゃあ、これは?じゃあ、これは?」と見せてくれるのだ。実際、彼が持っている石はびっくりするようなものばかりだ。耳のかたちをしたもの、ハート型のもの、笑顔の模様が入ったものなど、きりがない。
これまで私は石を見つけ、石を愛でるために様々な場所を訪れてきた。だがどの場所も石もラタンプールとは比べものにならない。とは言えすべての場所がそれぞれに異なっており、どこへ行っても新たな種類の美に出会う歓びで有頂天になる。もっとも、その度に穏やかならぬ思い、自分を卑下したくなる思いが私の胸をよぎる。その思いとは… どうすれば新たなものが創造できるというのか、どうやってデッサンしたりデザインすればいいのか、私たちが何をしようが、いたるところの天然自然の中に存在する完璧さと美しさにはかないっこないのに。 |
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2回目となるヨーガンレール展は、レールさんが長年集めてこられた個人コレクションの石と、その無二の宝である石を、最大限に生かすべく新たな造形を与えられた装身具である。24金やプラチナ製のビーズに繋がれたり、手の込んだ組紐に通されたり、小さなマクラメの袋に覆われたそれらは、息を呑むほど美しく、永い間かかってつくられた自然の造形を、人の手によってその存在以下にはしてはなるまいという、純粋な自然への畏敬の念と石への深い愛情が為し得た仕事である。
今展には百草用に作られた簪(かんざし)と帯留めも出品される。
自然の創造とレールさんの情熱に敬意を表したい。 |
百草 安藤雅信 |
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