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大嶽有一 人は昔、鳥だったのかもしれない '04(左)
前川秀樹 無題 '04(中)
三谷龍二 時間の尻尾 '04(右) |
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21世紀の涸渇感
美術の予備校でデッサンの基礎は裸像であったし、街に設置してある彫刻は昭和40年代やはり裸像ばかりだった。美大に入る頃にはロダンへの熱も冷め、ポップアートや環境彫刻など表現の巾を広げようと期待していたのに授業はまた裸像。自然界の曲線はすべて裸像の中にあるなんてもっともらしい理論を付けられても、二十歳を過ぎると美術界の流行の方に気を取られ、素直に裸像賛美というかクラシック美術万歳と西洋アカデミズム信望者にはなれなかった。腰の落ち着かない不真面目な学生だった。
劣等生であったが上に教授と問題を起こして彫刻から離れ、ジャズ三昧の学生生活になった。しかし、またここでも壁にぶち当たった。どうやっても黒人には到底及ばない。日本人は黒人の演奏を分析したジャズ理論、楽器、スピリットを学んでようやくジャズらしきものになる。例えジャズ信望者となっても黒人の3倍の努力をしてまだかなわないのである。黒人は楽器が演奏できれば自然にジャズになるのに、もっと自分にとって自然に表現できるものはないかと考えていた時ハッと閃いた。美術も同じだと。人前では肌を隠すことを良しとしていた19世紀までのキリスト教社会は、鍵の掛けられる個室に入ると逆に裸を謳歌した。それに比べ明治まで混浴だった日本はつい先まで裸であった浴衣にセクシーさを感じる。そうかやはり裸像の美学は近代西洋の自然な渇望だったのか。
裸像が良い悪いという問題ではなく、芸術はその時代その時代の民衆の涸渇感の表れである。20世紀も後半になれば女性は解放され肌を隠さなくなり裸像の美学への現実味は感じないし、内面描写・自己表現などを追求する西洋的なリアリズムの具象彫刻では妙に重く感じる。21世紀の我々が涸渇感つまり足りないと感じているものは何であろう。
このところ戦争と少子化、犯罪急増など生かし生かされる命の連鎖が弱くなってきている。最近の動物愛玩の傾向はその反動だと思う。部屋の中にアカデミックではない具象彫刻が置きたくなってきたのはそんな理由があるからだろうか。生活空間に置いて違和感のない具象彫刻が欲しいとずっと思っていたのは私だけではないだろう。最近は仏像の残欠のような想像力をかき立てる具象彫刻、観る側が感情移入できる彫刻が待ち望まれていることを強く感じる。
今回の展覧会は、長らく抽象に向いていた目が具象もいいなと思えるようになったきっかけを作ってくれた作家達に出品をお願いした。作家に共通項があるとすれば、西洋アカデミズムに偏らず古代から現代までを俯瞰できる力を持って、今の日本人の生活感や人間が本来持っている生命力をさり気なく表現出来る方達である。彫刻の中に生活を感じ、また生活に溶け込む彫刻を6人の作家がどう展開してくれるのか楽しみである。 |
百草 安藤雅信 |
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神林學 メギ '04(左)
伊藤慶二 人「かたち」 '04(中)
岩田美智子 BOROZOKU '04(右) |
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伊藤慶二 陶
1935年に生れて土をいじり出し40数年、体質化した内に何が観えて来たのか?今回の企画は6つの場で「モノ」と「心」の接点をより感受できるのではないか楽しみにしている。
岩田美智子 布・陶・紙粘土
記憶は断片になって頭の中にツギハギの風景を作る。
その何だか安っぼい道端にBOROZOKUが居る。
ボロは着てても心は錦イ、と胸を張っている。。
大嶽有一 鉄(一部鋼に被覆)
私にとっての具象彫刻とは演劇空間である。当然の事ながら役者である鉄の人物像は作者自身の投影です
神林學 スタッコ・ワイヤー・木・石膏
夕暮れの山道を歩いているとビックとする。ひそひそ話をする人やうずくまっている人の気配。朽ち果てた木々や岩などがその正体。
その人たちの存在感の大きさ、それがそのまま私の作品になる。
前川秀樹 桜・ヤマモモ・麻布
人体ではなく人を彫る。その人の雰囲気、性格や空気をあえてそぎ落とすのではをく、木の魂に纏わせるというのが今回中心になる作品の表現意図です。
三谷龍二 木・和紙・漆・鉄
僕は大きなことよりどちらかというと小さなことに関心があるタイプのようで、暮らしの中でもついそうしたところに眼がいってしまいます。
恐らくこの傾向性が、自然に「器を作る」というところにも繋がっていったのだと思います。そして仕事の合間に時々作る僕の立体や平面にしても、その点では共通しているように思います。
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