李朝今昔 |
この展覧会を思い立ったのは、消滅したはずの李朝の現在進行形の「かたち」を、初めて李さんの仕事に発見したからだ。ただ形を継承したのではなく、もの作りとしての姿勢の継承である。今ここにある素材を使って如何に旨く使い手の要望に応えるか。その自在性と機能性が使い手の心をくすぐる。使い手は、作り続けることによってしか得られない到達点をそこに見る。使い勝手がよく、味わいのある美しい器。なぜこんな当たり前のような器が現代では出来なくなってしまったのか。複数の要因が挙げられるが、職人が時代の変遷と共に作家になり、土練りから焼き上げまで一人の手で行うようになったことと、流通の発達によってどんな素材でも手に入るようになったことが挙げられよう。
ドイツ・エッセンの李さんがディレクターを務めるマルガレーテンヘーエ工房では、地元の土を使って陶工たちがそれぞれ分業を保っている。今回の展覧会の日常雑器は、この工房で作られたものである。そして一品ものについても、工房の職人との共同作業で作られる。
ある韓国の陶芸家に聞いた話だが、今や職人では生活することは難しく、望まなくても作家になって生きていくしかないそうだ。李さんは閉鎖的な韓国の陶芸界に限界を感じ、韓国の芸大卒業後ドイツに留学した。不思議なことにヨーロッパのアートに出会って、李朝の精神が甦ってきた。芸術的手段や表現をぎりぎりまで抑えるミニマルアート、美しさと機能の融合を目指すバウハウス。泥でも何でも芸術の素材になり得、絵画も彫刻も目の道具であると教えたヨゼフ・ボイス。味気のない工業製品、伝統に縛られる職人、そして芸術との狭間で模索し、道具とは如何なるものかを徹底的に考え尽くした結果が、李朝の現在進行形になったのではないか。ここにきてまた21世紀に向かう、一つの作家ではない在り方を見ることができた。
ギャルリ百草 安藤雅信
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李 英才略歴 |
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1951 |
ソウル生まれ
六歳から十二歳まで李朝の道具を当たり前のよに使う祖母に育てられる |
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1972 |
ソウル芸術教育大学陶芸科卒業 |
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1973 |
韓国の芸大で習えなかった、焼きもの作りのしっかりとした技術を身につけて帰って来ようと思い、ドイツ・ヴィースバーデン芸術大学の彫刻科に通いながら、陶芸家クリスチーネ・タッパーマンとラルフ・ブッツに師事(アーティストの友達や先生達の真面目さ、そのアートの社会的リアリティを知る ヨーロッパで芸術のいきいきとしている姿を体験できた事が、今まで韓国に帰らなかった一つの大きな動機)
芸術的手段を最低限に抑え、芸術的表現を真の本質まで削り出すミニマルアートに影響を受ける |
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1978 |
ヴィースバーデン芸術大学卒業
ハイデルベルグにて工房を創設
ハイデルベルグ大学で東洋美術の勉強をする |
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1980 |
フレッヘン文化財団第一賞
ドイツで最初の個展を開く その後ドイツ各地、及びオーストラリア、イタリア、アメリカ日本にて個展を開催 |
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1981 |
バンビコンペティション第二賞
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1984 |
カッセル総合大学助手となる |
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1987 |
バウハウスの理念に基づいて1924年に創設されたマルガレーテンヘーエ陶芸工房のディレクターとなる |
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1989 |
バイエルン文化庁金賞 |
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1990 |
自信で設計した薪窯を導入 |
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1996 |
「美術としての器 韓国人ヨン・ツェ・リーの陶芸」
ベルリン国立東洋美術館、ケルン市立東洋美術館 |
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1997 |
ヘッセン州大賞 |
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