ギャルリももぐさ/百草
作品/百草
Temporary Exhibition Gallery Permanent Exhibition Gallery Cafe Outline & Access Momogusa Original Masanobu Ando's Work Akiko Ando's Work Published Momogusa Blog.
企 画 展 企画展リストへ
赤木明登

1999 1月15日(金・祝)〜1月31日(日)
11:00〜18:00


在廊日 1/15(金・祝)・16(土)・17(日)・30(土)・31(日)


作家によるスライドレクチャー
:1/16(土)17:00~
:1/17(日)17:00~
片口
ぬりもの
輪島塗下地職 赤木明登 

 山田先生は、僕が東京で学生をやっていたころのお茶の先生だ。彼女は、僕が知っている女性の中で、もっとも素敵な人の一人だった。お茶と言うと、形式ばっていて、退屈と言われることも多いけど、僕は、そこが好きだ。いろいろと制約の多い漆の仕事と似ているところがある。
 僕が、一人でお稽古のときは、先生はいつも形式にこだわらず、好きなようにお茶を点てなさいと言ってくれた。だけど、僕のウツワでは、決まりきった型どおりにしかお茶は点てられなかった。
 やがて、型どおりにお茶を点て続けることが、とても気持ちよく豊かなことだと気がつく。先生が客で、僕がお茶を点てていると、僕が考えていることや、感じていることが、そのまま伝わってしまう。今日はこの後デートだというとき、どうしても楽しいお茶が点つ。ふられてしまったら、悲しいお茶になる。
 言葉は使わないけれど、言葉よりもっと豊かにコミュニケーションができてしまう。
 お茶って、なんてすごいんだろう。
 塗り物も、似たところがある。
 同じ形で、同じ色でもいいお椀と悪いお椀がある。いいか悪いかは、もちろんそれを使う時、使う場所、使う人によって変わってくる。考えてみると、この世の中にお椀と呼ばれる同じ機能を持ったものがどのくらいの種類あるだろう。何万、何十万、何千万・・・。それだけ変わり続ける形と色のお椀の中に、自分だけの形や色の新しい何かをもう一つ付け加えても何の意味があるのか僕にはわからない。結果は、何千万分かの一つになるに過ぎない。
 僕としては、色や形をあれやこれや変えて、新しいものを作ることよりも、同じ型の中で、今の僕にとって最もいいものを作ることのほうがずっと面白い。
 二十世紀のある時期、美術や工芸の世界では、自らのオリジナリティを目に見える色や形の変化で表現しようという考え方が続いてきた。そういう小さな違いで勝負しようという考え方は、この分野だけでなく商品やサービスや情報といったすべてにゆきわたっている。だけど、僕には、その違いが細かくなればなるほど、違いを強調すればするほど、何か本質的なものから遠ざかり、よくわからないものになっていくような気がしてならない。おもちゃ箱をひっくり返したような今という時代を生きている人間に、何か生きにくさを感じさせ、疲れさせているのは、このバラバラな感じではないか。
 細かく小さな違いを発見して表現していく方向があるならば、大きく同じものをもう一度発見していく方向があってもいい。
 僕はそういう仕事をしたい。
 もし、僕の中でアートというものを定義できるとすれば、それは自らを生きにくくしている根本的な問題と対決するものであると言えるかもしれない。

 輪島で暮らしはじめて、あっという間に十一年が過ぎた。東京での編集の仕事を辞め、輪島塗下地職人として弟子入りして四年の年季と一年のお礼奉公が明けて、独立して六年。
 この間、なぜ僕は輪島に来たのか、どうして漆を手にしたのかと考え続けてきた。実は、最初からその答えがわかって輪島に来たのではなく、ほとんど直感的だった。
 そしてようやく僕が見つけたのは、せいいっぱい自分になる、自分をするという単純なことだった。
 輪島塗の下地職人として仕事をしているうち、だんだん簡単なことがわからなくなってきた。職人は、目の前にある木地をより強く丈夫なものにしようと漆を塗っている。ところがそうして仕上がったものを使う側はどうか。漆器ほど傷つきやすく弱く扱いにくいものはないと思っている。この作り手と使う人との間のギャップは何だろう。僕は、この溝を埋めたい。作る人の思いを実現させて、使い手が少々手荒に使っても平然としている漆。それには従来のツルツルピカピカの輪島塗ではだめだ。そう思ったとき、僕の前には偉三郎さんがいた。僕が生命のある漆と出会うきっかけとなり、新しい雑器としての塗り物世界を切り開いた人、角さん。
 でも、僕が偉三郎さんと同じ仕事をしてもだめだと思った。
 では、いったい何か。ピカピカの塗りでも、偉三郎さんの塗りでもない何か。それが見つからないまま独立したある日。台所でいつものように夕飯の支度をしていたうちのカミさんをボーと眺めていて、突然気がついた。
 □ □でない、△△でない何かなんてないんだ。僕は、僕が今本当に塗りたい塗り物を作ればいいだけなんだ。そうだ、そうなんだという何かよくわからない確信があった。
 僕は、最初に僕の一番好きな塗り物、李朝の文箱をそっくりそのまま木地から金具まで写して作った。一つ、二つ・。なんて楽しんだ。女性が嫁ぐ日に自分の家系図を入れていくというその箱は、木地の上全体に和紙が張られ、錆びた鉄の金具がつき、ツヤがなく、好きでたまらなかった。それが塗りに和紙を使った最初だった。いろいろ試行錯誤のうえ、その箱そっくりの表面ができあがった。なんてキレイなんだろう。
 またある日、輪島郊外の北谷という山寒村。廃屋で、朽ちかけた一つのお椀を拾った。その赤いおおぶりの飯椀は、輪島塗が始まったころ李朝の箱の色が組み合わさって、僕の最初の椀ができあがった。
 その日から、古い美しい道具たちと次から次へと出会うようになった。僕が集めているというより、道具のほうから僕に近寄ってくるような気がしている。僕はそうして出会った美しい道具を順番に写していった。
 そんなある夕方、一日が過ぎるのも忘れて仕事の中に入っていた僕は、ふと我に返って気がついた。ああ、僕はこのために生きて居るんだと感じたとたん、涙が流れた。それは、一瞬の出来事だったけれど、それからその一瞬は、永遠に続いている。
 
 さて、先の確信、僕は僕なんだというのは、物作りの上でとても大切なことになった。つまり、漆を塗るというのは、僕が僕になっていく過程でもあった。
 お椀を作るとき、腰をもう少しふくよかにする。高台をもうちょっと低く。上縁をちょっと厚く。黒はもう少し紫に近く。赤みは抑えて、ツヤは消して・、えんえんと自分にとって、今、最も美しい形と色は何かを追いかけ続ける。そうして、作られるものは、日々、洗練されていく。
 到達点はどこにもないけれど、本当の自分を追いかけ続けている、現在の自分こそが本当なのだと思う。
 それは、単純にあらかじめそこにあった自分を表現するのとは違う。結局、僕とは、空虚なもので、あらかじめそこにあったと思い込んでいる自分を消していく作業の中で現れてくるものだった。
 だから、僕は、自分の作る物に、自我にとらわれた感情を表現したり、精神的な幻想を込めたりは一切しない。
 この何年か、一年に数千個の椀や皿や箱を写し続けている。すると次第に食器が僕の意志とは無関係に勝手に増殖しているのではないかと思えてくる。僕は、一つの通過機械のようなものなのかもしれない。それは、DNAを写すことによって生命体が繁殖していくイメージとにている。DNAの側から見れば、生命体は自らを増殖し活性化させる装置に過ぎない。
 そのようにして、洗練をする主体としての僕が、そのあるべき中心にないと感じた。そのとき、あると信じていた自分と、単なる通過機械のような自分との間に波立つゆらぎのようにして僕があるということを再び知った。
物を作っていておもしろいのは、自然にある物質に手を加えて変化をさせていく過程で、僕のほうの体も考え方もいろいろと変化していくことだった。

 おそらくこの感じ、私とは虚ろなものだというのは、今、多くの人が心のどこかで実感しているのではないかと思う。
 僕は、今、自分というものの消えた砂漠のような場所で生きている。そこは、真っ暗闇の宇宙のように、自分が存在するのが耐えられない荒涼とした場所なんだと思う。
 でも、だからこそいとおしいんだと思う。だからこそ愛せる。
 愛は、空虚な自分にとっては、未来に続くものでもないし、それが人であれ物であれ、いとおしく思う対象も永遠のものではない。僕のこの気持ちも、愛する対象も、一瞬の後にはかなく消え去るものであることを強く自覚して、今、この瞬間の対象をいとおしく思うことのみ可能なのだと思う。
ある朝、うちのカミさんが早起きをして、子供たちのお弁当を作っていた。卵焼きにウィンナー。あたりまえの中身だけど、このお弁当をあけたときの子どものうれしい顔がよくわかる。やさしく、美しく、強いお弁当だった。
 感動した。
 こんなお弁当みたいな塗り物を作りたいと思った。

茶箪笥

赤木明登の仕事

 赤木君の仕事の特徴を挙げるとするならば、先ず一つに形の美しさがある。無駄がなく整合性がある。10代の頃から古美術に触れてきたという目の訓練と大学卒業後に携わっていた雑誌の編集の力と幅広い知識が遺憾なく発揮されている。それともう一つの魅力に塗りの丈夫さがある。工芸作品と工業製品の分化が著しい現代においてそのどちらにも満足できず、自分が使いたい器を作るという動機で作り始め、それには日常で使える丈夫で美しい器が必要であるという気持ちがあったはずだ。中世の漆器を模したというハケ目の残る食器には寺の什器として作られた根来塗りと同じ素朴な力強さを感じる。使う為に作る。その動機の純粋さが、見せる為に作る現代の工芸にも沢山売る為に作る工業にも決定的に欠けている。赤木君の塗り物には、俺を使ってくれよという声が聞こえてくる。見せ物でない雑器としての大らかさがある。
 生活と食の多様化に見事に応えてくれている赤木君の仕事。今回の個展では食器と家具の展示、それと赤木君が影響を受けて来た数々の古道具を同時に展示して、少しでも漆の魅力的な一面を理解して戴ければと思います。尚、会期中赤木君には漆の工程を実際の作品とスライドを使ってレクチャーして戴きます。奮って御参加下さい。

1999  1月
 

ギャルリももぐさ 安藤雅信
木地溜 長手重箱
赤木明登作家略歴
1962 岡山県金光町に生まれる
1981 中央大学文学部哲学科に入る ポストモダニズムを知る
山田梅子先生にお茶を教わる
1985 世界文化社家庭画報編集部に入る 
新宿・ギャラリー玄海で、現代美術作家・あんどう雅信と出会い、花園神社で缶けりをする
1987 日本橋高島屋で角偉三郎さんの個展を見て、漆の命に感動し、輪島を訪ねる
1988 会社を辞め輪島へ引っ越す
1989 輪島塗下地職・岡本進に弟子入り
1992 キム・シュフタン、関次俊雄さんから李朝の箱を預かる
1993 北谷集落で飯椀を拾う
1994 年季明け、礼奉公の後、独立して、和紙を表面に使った独自の漆器作りを始める
1996 ドイツ国立美術館「日本の現代塗り物十二人」に選ばれ、巡回展、海外でも高い評価を受ける
1998 ヨーガン・レールさんと出会い、ヨーガン・レールの漆器を制作
輪島塗の起源をイメージした食器「輪島ぬりもの」を始める
個展
1994 桃居(東京)
1995 梅屋(福岡)
阪急百貨店(大阪)
桃居(東京)
1996 スペース幹(倉敷)
日々(京都)
梅屋(福岡)
遊中川(奈良)
桃居(東京)
1997 テーブルギャラリー(高知)
ビエニョ(名古屋)
真木テキスタイルスタジオ(東京)
1998 燈々庵(あきる野)
梅屋(福岡)
壺中楽(鹿児島)
遊中川(奈良)
ヨーガンレール福岡店
桃居(東京)
グループ展
1995 「現代の道具展}玉川高島屋(東京)
1996 「現代日本の塗り物十二人展」公立美術館(ドイツ)
「工房からの風」ニッケコルトン銀花(市川)
1997 「現代の道具展」玉川高島屋(東京)
「工房からの風」ニッケコルトン銀花(市川)
1998 「長谷川まみ・金工 赤木明登・漆 家具展」桃居(東京)
大椀
このページの先頭へ
ギャルリももぐさ 〒507-0013 岐阜県多治見市東栄町2-8-16 TEL:0572-21-3368 FAX:0572-21-3369 ■お問い合わせ・通信販売について