ギャルリももぐさ/百草
作品/百草
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伊藤慶二展

1998 10月23日(金)〜 11月23日(月・祝)
11:00〜18:00
休廊日 11/4・11・18
陶芸の内なる批評精神
三重県立美術館学芸員 土田真紀 
 伊藤さんの作品を初めて見たとき、ふと一人の織物作家(ご本人はこの言葉を嫌われたと思うが)のことが思い出された。二年前に亡くなったその人のほとんど最晩年の作しか私は知らず、また二度ほどお目にかかったにすぎない。作品はいずれもごく普通の縞や格子、そのなかでも至って単純な柄ばかりで、複雑な色を駆使したようなものはなかった。あまりに変哲がなく、どこか呉服店の店先に他の商品と並んでいたら、私自身見過ごしてしまいそうであった。しかし近づいてみると、布は何ともいえぬ光沢を放ち、手に取ると、しなやかさと軽さにはっとさせられた。最も力を入れていたのは文様でも草木染めによる色彩でもなく糸であったが、といってテクスチャーが見るからに凝っているというのでもなく、その本当の違いは、実際に手に触れ、袖を通してみないとわからない。染める前の手紡ぎの糸を見せてもらい、その美しさに心から驚いた。個展を開くこともないため、それらの織物は、ただ静かにその実価を知る人が現れるのを待っているという感じであったが、それは現代のような時代においては本当に貴重な存在であると思われた。
 初めて見た伊藤さんの作品も、織物の糸にあたるような目立たないけれども肝心な部分に、私などの気付かない細心の注意が払われているような印象を受けた。たとえば、眼の前に次々と現れる伊藤さんの作品をひとつひとつ見ていくとき、私は安藤さん夫妻(今回の展覧会の主催者であり、ギャラリーのオーナーである)に作品の底部の美しさを教えてもらった。そうして見ていくと伊藤さんの作品はすべて底部の表情が美しいばかりでなく、底部を見ただけで伊藤さんの作とわかるということに気付いた。もちろんそこにサインやモノグラムが入っているが、仮にそれがなくてもわかるのである。ただきれいに仕上げられているというのではなく、洗練された自然なやり方において「個性的」であった。恐らくそうした細心にして熟達した手法は、素材の選択に始まり、制作工程の隅々にまで及んでいるにちがいないと思われた。
 いつどこであったか、足の裏の美しさに触れた文章を読んだように記憶するが、伊藤さんの作品の底部や織物の糸の美しさは、これに通じるものがあるのではないだろうか。ことさらに見せることもないし見せる必要もなく、外側にありながら、外見を繕うこととは無縁な部分の美しさ。そこにこそ、嘘偽りのない本当の姿が現れるということだろうか。たとえば見えないところに凝るある種の江戸の美意識とも異質であろう。後者は、たとえ屈折したかたちにせよ、他者の視線への意識がはっきりと存在するが、ここでは他者の視線は問題ではないからである。
 それではこうした姿勢の背後にあるのは、ある種の倫理的な態度なのだろうか。しかし二人の作品には、ものを作るということへの責任感や自負というばかりでなく、市井にこそ脈々として息づいている、近代文明や現代社会に対するひとつのすぐれた批評精神が感じられた。おおかたの人々が根なし草として日々を生きている社会にあって、彼らこそ何か自分のなかに確固とした基盤をもって世界をみている人たちであり、またものを作ることそのもののなかからそうした基盤を築いてきているように思われた。あるいはこれこそ本当の意味での「職人気質」であり、二人に共通する、うわすべりしない、身体全体にまで浸透したすぐれた批評精神の正体なのかもしれない。
‘鎧’1965
 伊藤さんの拠って立つ基盤は、確かに「世間」や「社会」という我々普通の人間が立っているものの外に築かれている。ではどこにあるのか。すでに何人かの方が指摘されているように、古代と同質の自然への根源的な信仰に近い畏怖の感情が伊藤さんの作品の背後にあると私も考える。もちろんこの場合の自然は、「破壊」も「保護」もできない圧倒的な力で人間を取り囲んできたそれであり、考えてみれば、日本における陶芸の歴史そのものが、そうした自然と人間との関係のひとつのあり方を物語っているようでもある。縄文土器、弥生土器、須恵器、無釉の陶器から施釉の陶器へ、陶器から磁器へというその数千年をかけたゆっくりとした展開自体(必ずしも直線的な展開ではないにせよ)が、人が与えられた条件のなかで、無限の試行錯誤を繰り返しながらゆっくりと自然の声に耳を傾けてきた歴史そのものなのではなかろうか。そこでは土、火、水など、陶器づくりに必要なものすべてが、人間にとって単なる素材や道具ではなく、人の力ではコントロールしきれない、神聖なものであったにちがいない。普段そうした世界からすでに絶望的に遠ざかってしまっている私にさえ、かつてのそうしたあり方に想いを致すことを伊藤さんの作品は可能にしてくれるのである。
 伊藤さんには、すでに伊藤慶二のスタイルとして確立された一群の作品がある一方で、同時にひとつのスタイルや技法に固執することなく、様々な手法を試みてきたことを示す作品もたくさんある。しかしそれをたとえば「造形上の実験」と呼ぶのはどこか異和感がある。むしろ土器づくり、陶器づくりを通じて太古から繰り返されてきた、自然とのぬきさしならぬ関係を探る最も重要な営みのひとつを、個人の経験のなかでひとつひとつ確認する作業に近いように思われる。それは、アイデアやコンセプトに土やその他を力づくで従わせようとすることとも、あるいは炎がもたらす偶然の効果に安易に頼ることからも遠い。目に見える形となった伝統の単なる継承やすでに確立された技法の繰り返しでもないかわりに、前衛あるいは個性という旗印のもとでの外見上の「新しさ」の追求でもなく、上記のような意味での陶芸の歴史の延長上にある現在という時点で、土とのぎりぎりの関係を、たったひとりで一から探り続ける作業であるように思われるのである。そうして陶器づくりの根底に横たわるものに最大の敬意を払いながら、ぎりぎりのところで作品をそこから切り離し、造られたものとして自立させるのである。その手際は鮮やかというほかない。
 もっとも伊藤さん自身は必ずしも相手は土でなくてもよかったという。最初絵を描いていた伊藤さんは、三十代になって陶芸を始めた。伊藤さん自身には最初からいわゆる陶芸家であることを拒否する意識があるのかもしれない。しかし見る側としては、別の可能性の魅力も捨てがたいにせよ、結果的に伊藤さんが土を相手に選んでくれたことは幸いであったと思わざるを得ない。実は、まだわずかな作品体験のなかでのことであるが、伊藤さんの作り出す多彩な形のなかで、私は特に独特の切れ味の鋭い輪郭線に強くひかれ、伊藤さんの真骨頂がそこにあるように思った。土でなぜこれほどシャープでかつ繊細な線(器の場合には触れたときの心地よさとほどよく中和されている)をつくりだせるのだろうか。素人にはただ板状の粘土を重ねただけに見える形が、なぜこれほど厳しいフォルムとなり得るのだろうか。ときには土ではなく石を切り出したのかと思われるほどである。たとえば、白紙の上に一本の線を引くのであれば、すぐれた造形的センスがあれば事足りるのかもしれない。素描の魅力はそこにある。私は伊藤さんが非常に優れた感覚の持ち主であることを確信するが、陶芸に現れる線やフォルムや質感を思いどおり操るのはセンスだけではどうにもならないはずで、土のような素材を相手にこうしたフォルムを実現するのは、全く別の力量を必要とするであろう。そうした力量とセンスを稀に兼備していながら、伊藤さんの作品はことさら技巧を誇ることはなく、様々なテクニックは手の内に秘められ、ごくさりげない形で作品に反映されているだけである。そうしてできあがった作品はいずれも一分の隙もないほど的確なフォルムと質感を示しているのである。
 さて、王国シリーズの作品にせよ、compositionあるいはyin'yangと名付けられた作品群にせよ、現代の陶芸の枠組みのなかで普通は「オブジェ」と呼ばれるものである。しかし西洋の言葉でもともと客体、物体、対象等の意味をもつこの「オブジェ」でもって、伊藤さんのそれらの作品を呼ぶのは、私には大変異和感のあることに思われる。一木一草にも、石ころひとつにも神が宿る、森羅万象に神を視るという意識があまねく行き渡っていた時代には、「オブジェ」に相当するような「もの」はなかったはずである。近代以降、主観に対する客体という思想が将来され、同時に資本主義は「もの」を商品に変えた。いまでは人間にとって一切は生命をもたないオブジェ、または商品としての「もの」に化してしまったかのようである。陶芸の世界における「オブジェ」の出現は、奇しくもそういう意味での陶芸の近代化の最終的な宿命であったともいえるのかもしれない。是非はともかく、陶芸の歴史からみれば、「オブジェ」はいわば鬼子として産み落とされたといえないだろうか。
 伊藤さんの拠って立つ基盤がすでに述べたとおりであるとすれば、伊藤さんの作品はこの「オブジェ」とは対極に立つものであると私は思う。むしろ伊藤さんのつくる器とそれ以外の作品の関係を見ていると、私はたとえば須恵器における実用的な器と祭器の関係を想起する。須恵器を見ていると、実用的な器と祭器との距離はそれほど遠いような気がしない。確かに区別は厳然とあるのかもしれないが、同じ地平のなかで作られ、ひとつの有機的な連続性をもつ生活のなかで、聖と俗というそれぞれの役割を果たしているように思われるのである。
 伊藤さんが自ら築いたという窯は、小川のせせらぎを耳にしながら林を分け入った奥にある。仕事場の大きな窓を開け放った正面に、樹々に囲まれて古代の磐座を思わせるような大きな自然の岩があった。仕事場の建物の周囲をぐるりと「足」を象った作品が取り巻き、林のなかに作品がひとつ、石仏のように立っていた。伊藤さんの作品は、たいてい自然に対峙して毅然と立っているかのような厳しい相貌を示しており、日本の風景のなかに納まりきらない普遍性をもっているかのようでいて、その実、こうした昔から変わらない風景の一部と化すことを拒否するものではないということに私は気付いたのであった。
‘場’1997
伊藤慶二作家略歴
1935 岐阜県土岐市に生まれる
1958 武蔵野美術学校では森芳雄、山口長男、棟方志功等に教わる
1960 岐阜県陶磁器試験場に入り、日根野作三先生に師事、“焼きもの”を知る以来交流は亡くなるまで続く
1963 J.D.C.A.(日本デザインクラフトマン協会)入会
1982 同上退会 集団の眼に見えぬ「かたち」より、個の眼にみえる「かたち」を大切にしたい
1973 ギャラリーユマニテで5人展 土(焼きもの)を素材にした造形物体の展覧会の黎明期となる
1981 ギャラリーマロニエ「CLAYWORK'81」グループ展を企画
1987 ギャラリー白「シリーズ土一華麗なる変身」村松寛氏企画
1992 陶一空間の磁場」石崎造一部氏企画これ等の企画はお互い個の交流を重視する動きとして現れた 最近では1997 ASAMA工芸館で「陶磁の形11人展」に出品)
1975 マイ・スタジオ一作陶
1978 世界クラフト会議クラフトコンペ受賞
1979 '79日本クラフト展受賞
1981 ファエンツア国際陶芸展受賞
1994 滋賀県立陶芸の森に招待され、ワークショップ・スライドレクチャー・作品の成形一焼成 外国、国内の研究生とは宿舎を共にし、楽しく交流を深める
1995 土岐市にて「ファエンツア国際陶芸展日本人受賞展」企画 土岐市はファエンツアと姉妹都市であり、この開催で市は陶芸界に大きな意味で価値付けられたのではないか
1998 EASTWESTCER仙ICS COIユABOR?IlON(ハワイ大学企画)に招待され一カ月間制作9カ国から参加した陶芸家との交流は意味深いものであった国際陶磁器フェスティバル美濃’98のアドバイザーとなる
1976 三上次男先生の紹介によりグリーンギャラリー個展(76・78年二回)祥雲堂個展(以後四回)中嶋さん(いきなダンナ)を知り、今は二代目の息子さんとなる長いお付き合い
1992 ライフギャラリー点個展(94・98年三回)オーナーの新田夫妻にはお世話になり多くの九州の人に会う機会を作ってもらっている なかでも料理人の佐々木志年さんとはこれからも楽しく、面白くありたいものだ
1994 めいてつ美術画廊にて初めての茶碗を発表 日根野先生には「茶碗ほど面白いものはない 50歳を過ぎて理解できたら造れ(理解できなければ造るな)」と云われていた私にぼちぼち出来だした
1980 地元の作家達とMINO展を企画 地方の「人」「もの」の交流を図るその成果は現代陶芸のグループ活性化につながったのではないか
1988 第9回MINO展 女性陶芸家18名との交流を最後に解散
1983 BRAUNSTIN GALLERY(サンフランシスコ)個展陶額堂企画
1995 HETJENS美術館(ドユツセルドルフ)個展GALLEERY BOWING(ハノーバ)ローザンヌ装飾美術館(スイス)を巡回
1983 信州の土塀に囲われた民家の土間と庭でインスタレーション
1992 福井の武家屋敷の門がある遊悠文庫(古い民家)の内(5室)外(庭)を使って展示する
1998 明治時代の民家を移築したギャルリももぐさの柿落としに、私の個展「伊藤慶二展 1965−1998」が企画された
‘鉢’1998
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