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2015-07

FUNKの周辺 7  菊地雅章

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今月7日、ジャズピアニストの菊地雅章さんが亡くなった。マイルスと共演し、一時でもアメリカの音楽シーンの先頭に日本人でいたと思える唯一のキーボード奏者だったと思う。僕の中で1970年代の日本のジャズシーン・トップ3は日野皓正・菊地雅章・渡辺貞夫だった。ナベサダはアメリカ留学帰りで、日本のジャズを盛り上げようという意志があったので、ラジオやライブで明るいジャズを日本で披露していた。ヒノテルとプーさん(菊地)は日本ジャズシーンに満足できず、アメリカに渡っていった。70年代後半、東京の親戚の家でニューヨークに滞在するヒノテルからの手紙を見せて貰ったことがある。涙で文字が滲んでいた。
本場で活躍したいという気持ちは、今の大リーグの野球選手を見てもわかる通り、日本人がずっと持っているメンタリティーの中に潜んでいる。99.9%の日本人が諦めてしまう中、実際に渡って成功した人は実に少ない。日野さんは今でもニューヨークで踏ん張っている。1981年に出たこのアルバムは、日本人もここまで来たか感慨深かった。

1970年代は保守的なジャズの人気が下り坂になり、クロスオーバーそののちフュージョンと呼ばれるようになったジャズが台頭してきていたが、4ビートが16ビートになり、アコースティックがエレクトリックになっただけで中身は薄かった。一般的にはロックの影響で楽器もビートも変化したが、マイルスがエレクトリックでやりたかったことは表面的なことだけでなく、黒人の中に沸き上がってきたファンク魂を音楽に注入すること。それには楽器を持ち変え、リズムも変えなくてはならなかった。菊地さんはその現場に立ち会い、触れたのだと思う。しかし、それは長くは続かず瞬間の出来事だった。良い音楽がマーケットで成功するとは限らない。自分の居場所を見つけることは実に難しい。

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