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ジャズ雑記 16 マイルスへの道 2 「カテゴリーを越える」

先日、マイルスを聴き始めたという若い女性と仕事で同席した。「ing」から聴き始めましたと言うので、50年代の4部作からか、カインドオブブルーで止まらなきゃ良いなと心配になった。
マイルスは過去に3回、ジャズの歴史を変えた男である。音数の多いビバップの時代に、音数の少ないクールの誕生から始まる40年代末のクールジャズ。フリージャズ全盛期に対抗するかのように、今でもジャズの主流である50年代末のモードジャズの確立。そして60年代末のエレクトリックジャズである。エレクトリックジャズはジャズを駄目にしたと酷評されたが、そりゃそうだろう、ジャズでは客も自分も満足できないと、ファンクやロックの要素を取り入れ、ジャズの歴史の縦軸から横に飛び出し、その当時の現代の音楽を演ったのだ。それに追随したミュージシャンは多かったが、ほとんど一過性で終わった。カテゴリーの壁を越えるのには必然性がいるのだ。それは小さい穴から始まっていく。認知される穴になるのに20年は掛かる。何時の時代も。

ジャズ雑記 15 マイルスへの道 1

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新年早々、金沢市にある「モノトヒト」に行ってきた。生活工芸プロジェクトを辻和美さん6年間引っ張ってきて、そのまとめのトークショーがあったからだ。そこで面白い場面に遭遇した。3部構成の若手作家4人に辻さんが、尊敬するアーティストや作家は質問をしたら、ミュージシャンの名前を挙げたのだ。常々、僕は尊敬するアーティストはマイルス・デイビスで言ってきただけに、感慨ひとしお。確実にカテゴリーの壁は壊れてきている。ギャラリーのブログなのに、音楽の記事ばかり書いているから、とても嬉しい出来事だった。

ところで、そのマイルス・デイビスの周辺にも興味がある。「IN A SILENT WAY」はマイルスの最大の変化、60年代後半のエレクトリック化の先駆けとなったアルバムである。そこにスライ&ファミリーストーンの影響か、白人ミュージシャンが3人も参加している。オルガンのジョー・ザビヌル、ギターのジョン・マクラフリン、ベースのデイブ・ホランド。ザビヌルは4曲中2曲を作曲している。それぞれヨーロッパのミュージシャンで特徴があるが、ザビヌルの牧歌的な曲の雰囲気は、まさにこのアルバムの全体を支配して、とても良い。

写真のアルバムはNUCLEUSのELASTIC ROCKと渡辺貞夫のパストラル。二枚とも、「IN A SILENT WAY」の影響が如何に大きかったを証明している。ELASTIC ROCKの冒頭はトニーかと思わせるドラムソロから始まる。

アメリカのロック 3 Grateful Dead

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1965年結成、67年デビューでありながら、今でも話題になることがあるバンドである。カリスマリードギターのジェリー・ガルシアが95年になくなって解散。ヒット曲もないのに、何故アメリカで人気があったのか、生で聴いたことがないので本当のところは分からないが、二十歳の頃からその真相を知りたくてそれとなく追っかけた。
高3の時、伝説のサブカルチャー史月刊「宝島」と出会い、ヒッピー文化満載の記事の中からデッドを知った。デッドは一曲がとても長いライブバンドで、熱狂的ファンをデッドヘッズと呼び、録音も許可していた。隠し撮りどころか高音質の録音も許可し、ファンたちは今でも交換を軸に、アルバムが制作されているのだ。今話題になっているのは、そのことだ。
パソコンやデジダル技術の革新により、各種著作権を守ろうと複製を排除する傾向がある中、録音をオープンにしていたデッドのセールスが巨大になっているらしい。そこにこれからのビジネスのヒントがあるのではないかということだった。
70年代当時、数々のレコードの中でも骸骨デッドが良いとされていた。取り敢えず骸骨の絵が付いているものを買ってみたがさっぱり良さが分からない。骸骨の絵の付いているものはどうやら他にもあるらしかったが、どこからどう手を付けて良いのやらと悩んでいる時に見つけたのが、このアルバム。91年に出された他のミュージシャンによるトリビュート盤である。全15曲、ロスロボス、スザンヌ・ベガ、エルビス・コステロ、ドクタージョン以外は知らない人たちだったが、曲も演奏もとても良かった。このアルバムでデッドの曲の良さを知り、ミュージシャンにも愛されていることが分かった。CD時代になり、デビューアルバムから一つ一つ購入している。デッドには悪いが、しかし、このトリビュート盤が愛聴盤になってしまっている。

アメリカのロック 2 C.C.R.

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‘60年代後半から’70年代初頭まで活躍したバンドである。「雨を見たかい」のヒットで知ったが、その時はもう解散寸前だった。今でこそインターネットでバンドの動画はいくらでも観られるが、40年前はライブ以外では、年に数回放映していたNHKのヤングミュージックショーで観るしかなかった。このC.C.R.の出演した番組のワンシーンは今でも覚えている。田舎の小屋のような所にドラムセットが置いてあり、ドラマーが500円玉位の円をめがけて連打する基礎練習のシーン。その正確さに、たかがロックバンドなんて思っちゃいけない、ちゃんと基礎を積んでるんだと感心した。右からの二番目のジョン・フォガティーがリードギター・_リードボーカル・作詞作曲というワンマンバンド。ジョンの所為ではないだろうが、ワンマンバンドは長続きしない。アメリカ版ビートルズと期待されていたが、実働4年で解散してしまった。しかし、シンプルで飽きのこない好きなバンドのひとつであることにかわりはない。

FUNKの周辺 7  菊地雅章

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今月7日、ジャズピアニストの菊地雅章さんが亡くなった。マイルスと共演し、一時でもアメリカの音楽シーンの先頭に日本人でいたと思える唯一のキーボード奏者だったと思う。僕の中で1970年代の日本のジャズシーン・トップ3は日野皓正・菊地雅章・渡辺貞夫だった。ナベサダはアメリカ留学帰りで、日本のジャズを盛り上げようという意志があったので、ラジオやライブで明るいジャズを日本で披露していた。ヒノテルとプーさん(菊地)は日本ジャズシーンに満足できず、アメリカに渡っていった。70年代後半、東京の親戚の家でニューヨークに滞在するヒノテルからの手紙を見せて貰ったことがある。涙で文字が滲んでいた。
本場で活躍したいという気持ちは、今の大リーグの野球選手を見てもわかる通り、日本人がずっと持っているメンタリティーの中に潜んでいる。99.9%の日本人が諦めてしまう中、実際に渡って成功した人は実に少ない。日野さんは今でもニューヨークで踏ん張っている。1981年に出たこのアルバムは、日本人もここまで来たか感慨深かった。

1970年代は保守的なジャズの人気が下り坂になり、クロスオーバーそののちフュージョンと呼ばれるようになったジャズが台頭してきていたが、4ビートが16ビートになり、アコースティックがエレクトリックになっただけで中身は薄かった。一般的にはロックの影響で楽器もビートも変化したが、マイルスがエレクトリックでやりたかったことは表面的なことだけでなく、黒人の中に沸き上がってきたファンク魂を音楽に注入すること。それには楽器を持ち変え、リズムも変えなくてはならなかった。菊地さんはその現場に立ち会い、触れたのだと思う。しかし、それは長くは続かず瞬間の出来事だった。良い音楽がマーケットで成功するとは限らない。自分の居場所を見つけることは実に難しい。

アメリカのロック 1 Neil Young

Neil Young

ロックの定義を正確に述べることは僕には出来ないが、1950年代にブルーズやカントリーミュージックの影響を受けたロックンロールを源流とし、社会への主張を持つ音楽というのがイメージとしてある。いやいやもう商業主義に乗っ取られているでしょという意見もあるだろうが、その中でも初心を忘れないでやっているミュージシャンもいる。それがニール・ヤングである。カナダ・トロント出身であるが、同じくカナダ出身のジョニ・ミッチェルやザ・バンドのように、何故かピュアなアメリカを感じてしまう。

ニール・ヤングにはソロ名義のアルバムと、バックバンドにクレージーホースを従えたアルバムがある。ソロ名義のものはアコースティックギターの演奏も入り、フォークシンガーの一面も見せてくれるが、クレージーホースが入ると全面エレクトリックとなる。フォークを歌う時、鼻に掛かった不安定な音程のあの声が繊細に響いてくるが、エレクトリックとなると同じ声なのに、何かを訴える悲痛な叫びに聞こえてくるから不思議である。ギターもそうだ。アコースティックギターの時は、1音1音を大事にしているサウンドであったのに、エレクトリックになると技術は飛んでしまい、武器のように攻めてくる。

ボブ・ディランもそうだが、未だに新曲で攻めている稀有なミュージシャン。こういう人をアーティストと呼びたい。

日本の音楽夜話 9 再度 高田渡

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4月はシンクロするかのように、高田渡の話題が身の回りに近付いてきた。百草の展覧会、トークショーの打ち上げでミナ ペルホネンの若い女性スタッフと「コーヒーブルース」を歌い、イノダコーヒーに行きたいと思っていたら、朝日新聞夕刊で高倉健が良く通ったお店としてイノダコーヒーの店内がデカデカと載っていた。そして、「レコード・コレクターズ5月号」のリンゴ・スター特集を購入したら、高田渡の小特集が載っていた。

高田渡はデビュー作からはっぴいえんどがバックの演奏していたり、このアルバムのように鈴木慶一がプロデュースをしていたりと、周りに恵まれた方ではないかと思う。

その鈴木慶一氏がこの特集で語っていたのは「フォーク・シンガーの定義っていうのを私なりに三要素を考えたことがある。リサーチャー(研究家)。ランブラー。それと、トピカル、つまり時事を歌にできること。その三要素を備えた人は、日本では高田渡以外になかなかいないと思う」漠然と思っていたことを、ぴしっと指摘。流石である。このアルバムの中では7曲目「こいつは墓場にならなくちゃ」のプロデュースが秀逸。

富士吉田・ナノリウムでの高田渡のライブが、僕の最初で最後の高田渡だった。ミーハーなのでサインを頂いた。

高田渡には駄作はないというが、本当である。

日本の音楽夜話 8 ロック2

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サディスティック・ミカバンド/黒船

ロック日本語論争の4年後、プロデューサーにクリス・トーマスを迎え、タイトルを「黒船」として、日本語ロックも本格的に欧米進出を意識しているなと思った。高校2年の出たこのアルバムは、日本をもって知らなくては思わせた最初のきっかけとなった。一週間の曜日とか日曜日が休みであることは、どんたくの歌詞で知ったのだ。加藤和彦は挑発にジーンズのようなヒッピー流れのロックミュージシャンなどではなく、デビッド・ボウイやロキシーミュージックのブライアン・フェリーのようなイギリス系のお洒落さん。日本初のコンセプトアルバムじゃないかなあ。明治時代を物語にしたような日本語の詩と、情念のないミカの声、軽やかな演奏。日本のロックがファッションと同じく、一気にお洒落になった記念碑的なアルバムは、1974年に発売された。プロレスで外国人に日本人が勝ったような悦びがあったことを思い出す。加藤和彦のその後は、このアルバムの成功に縛られていたような気もする。早熟な人の運命。

 

日本の音楽夜話 7 ロック

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前回紹介した高田渡がデビューした1970年頃、日本のロック界は英語で歌うか日本語歌うかを問題にしていた。喧嘩をふっかけていたのは、ロック界の重鎮?当時、フラワートラベリングバンドの内田裕也である。彼はロックに日本語は旨く乗らないし、大体海外で通用しないとまくし立てた。「ロック日本語論争」である。ふっかけられた相手は、このはっぴいえんど。団塊の世代の一回り下の僕らから見ると、団塊の世代の行動は右にぶれたり左にぶれたりと、けっして一筋ではなく危なっかしく思うのだが、彼らは日本を背負っているのは俺たちだという自覚が強かった。その表れが、海外進出の英語派と逆に日本人のアイデンティティを守ろうという日本語派に別れただけ。根っこには西洋コンプレックスという共通の思いがあった。

高校生になったばかりの頃、このアルバムを聴いて誇らしく思った。英語派の音楽はただの洋楽コピーに聞こえたが、はっぴいえんどの日本語は、とても美しく、曲にも合っていた。日本が得意とするアレンジメント文化、ここに極めたりという感じ。この2枚のアルバムが、後進にあたえた影響は大きい。

右のゆでめんと書いてある方がデビューアルバム。英語を日本語のひらがな表記した「はっぴいえんど」というバンド名といい、つげ義春を思わせるジャケットといい、日本人のアイデンティティを西洋文化の影響を受けながらも全面に出していたのは1975年頃までか。つづく

日本の音楽夜話 6 フォーク

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「フォーク」はとっくに死語になってしまった。‘70年前後の10年間も輝いていたかどうか。荒井由美とかぐや姫、オフコースなどニューミュージックが出てきたと同時にフォークは地下へ、学生運動と共に下火になった。しかし、いつのどんな文化も完全に消えることは滅多にない。しぶとく、しぶとくやり続けている人が必ずいる。それを取り去ってしまったらこの人は存在できないというような人、それが高田渡だった。
僕は日本語でも外国語でも、歌詞が頭に入ってこない聴き方を普段している。左脳が弱いと言われてしまえばそれまでだが。しかし、高田渡だけは歌詞がすんなり入る。フォークは音がシンプルだから、歌詞を聴かなかったら何を聴くのとも言えるが、高田渡の歌詞は抜群に面白い。自作はもちろんこと、外国の詩、日本の詩、何でもありだが、全部を自分のものにしてしまう。詩を取り上げるセンスが、アートの域に達しているのだ。オリジナルって何だ? と思ってしまう。アートは自己表現ではなく、時代の切り取り方であり、それを証明してくれた、高田渡デビュー三部作、大阪の万博の頃のもの。聴くべし!
岐阜県が誇る二大アーティストの一人。(もう一人は熊谷守一)

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